日常の生活に浸っていると、全てのことが当たり前で、そこに若干の不平不満と充足感が行ったり来たりするものです。今回の研修はあらゆる意味で、人が生きていくうえでの日常を見直す機会となりました。
小笠原諸島返還50周年記念事業に参列するため、6月28日竹芝客船ターミナルを出港しました。7月3日に帰港するまでの6日間、小笠原村の現地調査も併せて行いました。小笠原村は2011年、世界遺産に登録されました。まさしく世界遺産たる雄大な自然は、見るものすべてが鮮やかなものでした。海の色、空の青、山の緑、自然の造形美、そして、6日に一度だけの「おがさわら丸」の唯一の交通手段がその環境を守っているのかもしれません。しかし、島民の安全安心を確保するための医療・防災の面では、離島共通の不安要素は解消されていません。
その不安を解消するために、平成20年に小笠原航空協議会が設置されました。村は、世界遺産たる自然を守る役目と村民の不安を解消する役目とを両立させるために、今も設置に向け関係機関との折衝を繰り返しています。「だめならダメと言ってほしい、次の手段を考えるから」航空路誘致に尽力している皆様は、こう切々と訴えています。長年の懸案事項である航空路設置には、世界遺産である島の環境を守りながら、1000m以上の滑走路を確保しなければなりません。付帯設備を含めるとそれ以上の長さが必要とのことです。
小笠原諸島返還50周年記念式典には、小池東京都知事と共に石井国土交通大臣もが列席され、返還50周年の祝辞を述べました。都知事はこの問題に言及し、滑走路予定候補地と1000mクラスの滑走路の設置の方向性を述べていましたが、小笠原村の皆様には、もうひとつ強い決意が伝わらなかったようです。「私の目の黒いうちに」という言葉をよく聞きますが、村の担当者や長年誘致に尽力された皆様の切なる気持ちが伝わってまいりました。もう一方で、利便性だけではなく、この環境をいつまでも守るべきだという村民の意見もいくつか伺うことが出来ました。一度東京都内など内地に赴けば、6日間は戻れません。出産のときは2ヶ月前に内地に行くそうです。【それでも小笠原村は子どもが多く、若い世代の家庭が多いのが特徴です。65歳以上の高齢化率はたったの15%です。特に若い世代に対する施策は行っていませんが、こどもは毎年増え続け、学校も建て直す方向で動いています。保育園は保育士不足もあり4歳児からの入園です。3歳児以下を育てている母親は、仕事に就いておらず、それでも不満そうな雰囲気がなく、生活環境にも満足し、自宅で子育てを楽しんでいる様子でした。基本的な魅力が島にあるということなのでしょうか。】
話を戻します。出産も内地ですが、親の死に目に会えないこともしばしばあるようです。内地での治療、療養で島に帰れない状況での最期を迎えざるを得ないことが悩みの種です。
そんな事情を勘案して、村では有料老人ホームを診療所に併設、ベッドを12床用意し、内地から帰って看取りもできる状態で運営しています。一般的には、入所時等相当な費用を必要としますが、村では一般会計からその費用を捻出しています。高齢者への配慮が伺える政策です。
さて、自然豊かな小笠原諸島ですが、有名なアオウミガメの産卵場の見学もさせていただきました。その生態、一生はウナギやサケなどと同様、苦難の連続です。村では、ウミガメの保護を目的として、産卵場の整備を朝5時から行っています。その一方で、捕獲頭数に制限を設け、地元の郷土料理として飲食店、民宿等で刺身や煮込み料理として提供しています。試食いたしましたが、なぜか複雑な思いも致しました。不便ではあるが、子どもが増えつつある小笠原村の父島、母島、豊かな暮らしとは何か、住み続けたい町、住み続けたい村とは何か・・・不便ではあるがその幸福感の高さに驚かされました。
最終日父島を離れる「おがさわら丸」を見送るため、村の皆様が父島二見港に集まってくれました。船が港を離れてもいつまでも手を振ってくれている島民の皆様、小学生も堤防から飛び込んで海中から手を振ります。漁船やヨットも何十艘も「おがさわら丸」と並走した後はこれも海上へのダイビングで見送りです。私たちも船上から力の限り手を振ります。幸福感を持った島民皆様の「おもてなし」を充分に肌で感じ、竹芝港への船旅となりました。
この小笠原諸島以外にも国境離島が我が国には点在し、日本人としての誇りを胸に家族と領土を守っている。まだ終わっていない硫黄島の遺骨収集など課題も残っているとのことでした。
返還され50年、歴史を刻んだ小笠原村ですが、この小笠原諸島の返還に尽力したのは、衆議院議員を10期勤めた福田篤泰氏でした。
旧東京7区、その後の東京11区(中選挙区で町田市まで含む広い選挙区だった)三多摩を地盤として活躍し、郵政大臣も勤めた私たちの大先輩の政治家でした。米国との再三の交渉の末、返還にこぎつけたという経緯を今回初めて知りました。その胸像が父島二見港を見下ろす丘に建っていました。小笠原村議会議長の案内でその歴史を確認いたしました。この研修で、私は沢山の経験を積むことができました。このような機会を与えていただきました町民皆様はじめ町村議会事務局、奥多摩町、東京都に深く感謝致します。
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